とにかくうちに帰ります――。
タイトルに惹かれて手に取った本書。
「職場の作法」(「ブラックボックス」「ハラスメント、ネグレクト」「ブラックホール」「小規模なパンデミック」)「バリローチェのフアン・カルロス・モリーナ」「とにかくうちに帰ります」の6作品を収録した、津村記久子さんの短編集です。
なんでもない日常の光景が、読者の心に突き刺さります。
あらすじ
うちに帰りたい。切ないぐらいに、恋をするように、うちに帰りたい――。職場のおじさんに文房具を返してもらえない時。微妙な成績のフィギュアスケート選手を応援する時。そして、豪雨で交通手段を失った日、長い長い橋をわたって家に向かう時。それぞれの瞬間がはらむ悲哀と矜持、小さなぶつかり合いと結びつきを丹念に綴って、働き・悩み・歩き続ける人の共感を呼びさます六篇。
(引用元:新潮社「宮部みゆき、西加奈子、強力推薦! 働き、悩み、それでも歩く人々の思いをつめた小説集。『とにかくうちに帰ります』」)
「とにかくうちに帰ります」注目ポイント
会社でのなんでもない会話や出来事、感情を切り取ってひとつの小説にしてしまえるのが、津村記久子さんのすごさです。社会人なら一度は体験したことがあるような“あるある”が描かれています。
共感できるがゆえの読みやすさ
基本的に本書では、ハラハラドキドキの展開は一切ありません。だから、というわけではありませんが、立て続けにハードな作品に触れたときなどの箸休め的読みものとしておすすめです。
「職場の作法」では同じフロアで働く人たちの人間性が細かく描写されていて、「こんな人いるいる!」「ああ、あるよね、こんなこと!」と心の奥底に眠っている、普段は思い出すまでもない些細な記憶が呼び起こされます。ノスタルジックとまではいかないけれど、なんだかちょっとした追体験をしているような感覚になりました。
それはタイトルにもなっている「とにかくうちに帰ります」でも同じで、たとえば雨が降って洋服(スーツ)がびしょびしょになる感覚とか、一度はじめたら引き返せなくて意地になる気持ちとか、あまりよく知らない、あるいは仲良くない人と2人きりになってしまったときの微妙な距離感とか、それなのに、状況が悲惨すぎるがあまり妙なテンションで一体感が生まれる瞬間とか……そんな日常でありふれた光景に共感しまくり!
楽しんで読める安心感
上記でも触れたとおり、本書の中で、ハラハラドキドキする展開は一切ありません。ミステリーのようなどんでん返しもなければ、恋愛もののように涙あり笑いありみたいなこともない。
ただ、日常の風景を描いているだけなんですね。
でも、それが誰にとっても一度や二度は身に覚えのある感覚で、ちょっとくすりとしながら頭を使わずに読むことができる。エンターテインメント色の強い作品となっています。
読みはじめる前も登場人物たちの生活は変わらないし、読み終えたあとも変わることはない。日常は変わらずそこにあって、続いていくだけ――現実世界と同じように。
変わり映えしないかもしれないけれど、同じに見える毎日の中にだって優しさと幸せは散りばめられているんだということがわかる内容です。
“当たり前”に当てられたスポットライト
たとえば会社の人に貸した文房具が返ってこないだとか、ワンフロアで巻き起こる小さなパンデミック(インフルエンザ)だとか、スポーツのよく知りもしない海外選手を応援したくなる気持ちだとか、そんな“当たり前”が懇切丁寧に描かれています。
それは読みものにするどころか、日記にさえ書かないような些細なこと。
でも津村記久子さんの手にかかれば、とても大事なことのように思えるから不思議です。
ひとりひとりの感情
「職場の作法」と「バリローチェのフアン・カルロス・モリーナ」はひとりの女性を主人公とした物語ですが、「とにかくうちに帰ります」では接点のないハラ(女性)とサカキ(男性)、この2人の視点を切り替えながら話が進みます。
それぞれがそれぞれの人生を生き、異なった環境の中で、それでも「とにかくうちに帰ります」という感情を共有し、しかし同じ状況にありながら抱えている思いは違うというのがなんとも面白いところです。
いろんな人がいるんだな、それが当然なんだな、と思わされます。十人十色。
「とにかくうちに帰ります」を読んだ感想
「これってノンフィクションでは……?」と思えるほど、リアルなお話の詰め合わせです。※フィクションです。
職場の作法(ブラックボックス)
無駄な仕事なんてひとつもないですよね。どれもが大事な仕事であるはずですが、中には「こんなの誰でもできるだろう」と決めつけて、失礼な態度で仕事を寄越してくる人もいます。
そんな相手に同じ態度で返すか、仕事を突き返すか、文句を言わず黙々と作業するか、それとも――。
徐々に積み上がっていく職場でのストレスと、その受け流しかたと、まさに“作法”と言うべき自分自身で作り上げたルールやプライドに共感の嵐です。
書類を投げて寄越してくる人だとか、「よろしく」の一声もなく仕事を置き去りにしていく人とか、いったいどうしたらそんな態度になるんだと言いたくなる人ってよくいますよね。
職場の作法(ハラスメント、ネグレクト)
たいして仲良くもないのに、知ったような顔をして人のプライベートを口にするな! と思わず言いたくなってしまう作品。
嫌な話題でも上司だから無視はできない、なら顔を合わせないようにと思っても、ずっとそうできるわけでもない……空気が読めないのか、あえて読まないのか、自分が思ったような反応が得られないと、やたら嫌味っぽく構ってくる人の扱いづらさといったらもう、わかりすぎてなんとも言えません。
同じフロアで働く浄之内さんの気持ちになって考えると、そうそう、そういう輩とは関わらないのが一番だよ! と応援したくなります。
職場の作法(ブラックホール)
まず、会社の人に「お土産なにがいい?」って聞かれると、すごく困りますよね。この時点で共感。
ただ本題はそこではなくて、大ざっぱなあまり借りた文房具を返さない間宮さん。いますよね、こういう人。極端に片付けが苦手だったりするだけで悪気はないんだけど、人の物を持ち去ってしまうっていう。
でも、おおらかな性格とその人柄でなんとなく許してもらえる雰囲気があるから、いちいち目くじらを立てるのもな……と思ってしまうから、憎めないんです。
この話もね、実際は「うわあ、緊急でFAXしなきゃいけない場所ができた。間宮さんなら連絡先知ってるんじゃ……でも、今いらっしゃらないし、あ、机の中に名刺とか入ってるかも? 勝手に見ていいかなあ、うん、見ちゃおう! ごめんなさーい(そろーり)。うわ、この引き出し、過去5年間分ぐらいの(いらなくなった)書類突っ込まれてんじゃん!」と、本当にこれだけの話。
人の私物を漁っているように思われたくなくて、人の目を気にしながら、あえて堂々と「これはそういうものなんですよ」という態を装って間宮さんの机に近づいていくのも親近感が持てます。
たかが机、されど机。
机を見ただけで、意外と性格や行動パターンがわかったりするものなんですね。
間宮さんについても、読む人によって評価は分かれるところでしょうか。なんてはた迷惑な! と思う人もいれば、可愛いおじちゃん! と思う人もいるのでは、と。
職場の作法(小規模なパンデミック)
かなりリアルな話。
ワンフロアの中で、インフルエンザが流行ります。そうなればちょっと具合が悪いというだけで大事を取って休んだり病院に行ったりするものだと思いますが、中には咳き込みながらも通勤してくる強者(というか、楽観的な人)もいます。
主人公は浄之内さんの回答をずれていると感じていますが、主人公自身もなかなかずれているのがまた愛らしいところです。
「職場の作法」に出てくる登場人物はそれぞれ「人のこと言えんやろ」と突っ込めるぐらいには個性的。
バリローチェのフアン・カルロス・モリーナ
正直に言います。
なに、この話。
もう一度言います。
なに、この話!
いや、特に不思議な話でもなんでもないんですよ。むしろ、かなり現実的で共感もできる。
日本では有名でもなんでもない、成績が微妙なアルゼンチンのフィギュアスケート選手を見守るだけの話。どういうこと?
まあ、これがフアン・カルロス・モリーナという選手なんですけれども、特別演技が光っていたわけでも、顔が濃いということ以外特に際立ったカ所があるわけでもないのに、気づけば一部始終を見届けてしまうという。
“フアン・カルロス・モリーナ”の動向にアンテナを張り巡らせるだけで、主人公がなにかしらの行動を起こすわけでもないのに、数十ページにも及ぶ作品を作れてしまうのがすごいですよね。
文才をバッシバシに感じます。
同じフロアで働く女性たちが織り成す、仕事中の会話みたいなシーンがとてもリアルです。
とにかくうちに帰ります
豪雨の中、なんとしてでも家に帰りたい人たちの話。
ハラ曰く、
家に帰る以上の価値のあるものがこの世にあるのか。
(引用元:とにかくうちに帰ります P154)
だそうです。
ハラの後輩オニキリによると、
給料も今のままでいいし、彼女もできなくていいから、部屋でくつろぎたいんです!
(引用元:とにかくうちに帰ります P154)
あるいは、
部屋でくつろぐためなら、大抵のことはやります。たとえば大雨の中をうちに帰るとか!
(引用元:とにかくうちに帰ります P154)
とのこと。すごい熱意ですね。でも、わからないでもない。
金曜日の夜、仕事が終わってやっと家でくつろげると思ったのに外は豪雨、まあでも帰れるかと思ったら交通機関に乱れが出ていて、ひとまず歩くか会社に戻るかの2択――となると、これはもうなにがなんでも帰りたいし、なんでもいいから帰らせてくれ! と思ってしまいそうです。
「うちに帰りたい。切ないぐらいに、恋をするように、うちに帰りたい」
(中略)
「おれも帰りたいです。自分と周囲の人たちの健康を願うように、うちに帰りたい」(引用元:とにかくうちに帰ります P156)
時折こう詩的になったり、訳のわからない話題に転がるのも、豪雨だからこそのテンションの乱れ(上がり下がり)が感じられて面白いところです。
個人的には、終わりかたが好きでした。薄暗いところからふと灯りの下に出たときのような、なんとも言えない安心感。文章からほとばしる温かみがたまりません。
なんでしょうね。
それぞれがただひたすらに「うちに帰りたい!」と思っているだけの話なのに、飽きがこないのが津村記久子さんの素晴らしさです。優しいお話でした。
ここでもうひとつ頑張って
働いていると日々嫌なこと、悲しいこと、大変なこと、いろいろありますよね。でも、本書を読めばまた明日からも頑張ろうと思えるかも。
でも、ちょっと真面目に頑張りすぎる人にも読んでほしい。疲れたときにホッと息がつけるような温度のある物語です。
※本記事の情報は2020年12月時点のものです。