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映画「LAMB/ラム」ネタバレ考察|アダの父親はいったい何者?謎が謎を呼ぶ不穏系タイトル

LAMB/ラム 考察_タイトル 記事

LAMB/ラム(字幕版)

終始不穏な空気に包まれている映画「LAMB/ラム」。

基本的に、解釈のすべてを観客に委ねるタイプのタイトルなので、観終わったあとにもモヤモヤ感が残ってしまった人も多いのではないでしょうか。

そこで、今回は私個人の視点から、考察してみたいと思います。

※考察するうえで、必要なネタバレが含まれることはご承知おきください。

本記事は2023年12月に執筆されました。すべての情報は執筆時点のものです。

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作品情報

タイトルLAMB/ラム
原題Lamb
ジャンルホラー
監督ヴァルディミール・ヨハンソン
上映時間106分
製作国アイスランド、ポーランド、スウェーデン
製作年2021年
レイティングR15+

あらすじ

アイスランドの山間に住む羊飼いの夫婦、イングヴァルとマリア。いつものように羊の出産に立ち会ったふたりだが、その日産まれた仔羊であるはずのそれは、羊ではない「何か」だった。かつて娘を失っていたふたりは、それを「アダ」と名付け、まるで本当の子どものように愛情を注ぐが……。

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映画「LAMB/ラム」の謎&考察

映画「LAMB/ラム」の考察です。宗教観が強めの作品なので、日本人としてはちょっとわかりづらい内容かなと思いました。

アダは何者なのか

アダは、羊(母)獣人(父)との間に産まれた子です。

アダ自身、人間と羊が混ざり合ったような状態。これがめちゃくちゃ可愛い。見れば見るほど可愛くなる。謎。

まあ、それはいいとして。

アダは、獣人(羊人間)である父親が母羊との間に強引に作った子どもです。

獣人(羊人間)の正体①

では、獣人(羊人間)ってなに? というところなんですが。

父親の姿を見て、ピンときました。

これ、バフォメットやないかい? と。

バフォメットとは、キリスト教の悪魔のことです。マリアと羊、羊飼いが出てくる時点で「あ、これキリスト教がモチーフになってるやつ?」と薄々思っていましたが、これはほとんど確定でしょう。

このバフォメットですが、山羊の頭と人間の身体を持っているという特徴があります。まさにアダ父そっくりの外見ですね。

MEMO
  • 気になる人は「メンデスのバフォメット」で検索!

そうなると、必然的にアダも悪魔の子ということになります。悪魔とはつまり、不幸を呼ぶ存在、あるいは悪や不義の象徴で、神に敵対する存在とも言えるでしょう。

アダ自身はめちゃくちゃに可愛らしいですが、なら最終的にイングヴァルとマリアを幸せにしたかというと……。

ちなみに、キリスト教的には山羊は悪の象徴なので、マリアたちにとってアダ父が良い存在でないということもわかりやすいですね。

「山羊? でもアダは半分羊という設定……だよね?」という部分に関してはまさにその通りなんですが、これは似て非なるもの(羊と山羊)を表しているのかなと考えます。実際、両者ともに偶蹄目ウシ科に所属するという点では同じですし。

なんでも、羊が大人しく臆病、そして従順な性格をしているのに対して、山羊には攻撃的荒々しい部分があるのだとか。まさにアダとアダ父っぽくありませんか?

獣人(羊人間)の正体②

半人半獣という点で、もうひとつ考えられること。

それは、アダ父がパーン(『パン』とも言う)であるということ。

パーンはギリシア神話に登場する牧神人間と山羊を掛け合わせたような外見で、牧羊や羊飼いたちを監視する役割を持っているそうです。

まんま、アダ父のような存在ですね。

踊りと音楽が趣味で、たいへん好色だったんだとか……。

また、このパーンはニンフたちにつきまとい、混とん状態に陥れたことから「パニック」の語源ともされています(昼寝を邪魔すると激しい怒りを見せるので、羊や羊飼いたちを恐慌状態に陥れることも)。

パーンに羊や羊飼いたちを監視する役割があると言った通り、アダ父はイングヴァル&マリア夫婦(羊飼い)の近くにいるような描写がたびたびありますよね。

同様に、そのパーンの息子とされるのがサテュロスという精霊です(諸説あり)。

サテュロスの特徴はパーンとほとんど同じで、半人半獣(人間×山羊)。悪戯好きなのに小心者、ワインが好きでたいへん好色だったとされています。危険でありながらも恥ずかしがり屋だということですね。……ちょっぴりアダっぽくないですか?

どうやら音楽も愛していたようで、ここらへんはペートゥルが奏でるドラムのビートに合わせて身体を揺らしたり、音楽を聴きながら踊ったりしていたことから、音楽に興味があるらしいアダに相通じるところがありますね。

「いやいや、でもアダってまだ子ども(?)だし、好色というのは無理があるでしょう」

というところではありますが、でも、イングヴァルとマリアのかなり久々と思われるベッドインの描写があります。あれは娘を失った悲しみが癒えたというより、アダの持つサテュロスの力(性の力)に影響されたものではないかと思います。

兄嫁であるマリアをペートゥルが誘惑する描写も然り。このふたりについては、以前不倫関係にあったようなにおわせでしたが。

イングヴァルとマリアがすんなり「人ではない」アダを家族として受け入れたのも、ペートゥルがアダの命を奪おうとしていたのに直前で取りやめるどころか、愛情を注ぐ方向に切り替えた不自然さも、アダの精霊としての力が影響していると考えれば、なんとなく納得できますね。

イングヴァルとマリアに関しては、娘を失ったことによる絶望的な喪失感を無意識に、あるいは意識的に埋めようとしていたと言われれば不自然ではないものの、ペートゥルの行動については流石におかしいですし。薄っすら愛情を感じてしまったのだとしても、こうも突然切り替えられるものだろうかと。

この説を信じるにしても、パーンはキリスト教の中では「異教の象徴」とされている(らしい)ので、羊飼いたちとは相容れない存在であったことがわかります。

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夫婦がアダを受け入れたのは……

先述しましたが「イングヴァルたちがアダを受け入れたのは、神や悪魔、精霊等の力が影響したことによるもの」と仮定すれば、アダ父がどういう種族だったかということも想像できます。

だって、たまたま影響しちゃった! 程度なら、いろんなことが結構な綱渡りになりますからね。

普通、あんな人間か羊かわからない得体の知れないなにかが産まれてきたら、即座に処分するか(アダ母をためらいなくやっちまったぐらいですし)、然るべきところに通報するかぐらいするんじゃないでしょうか。

イングヴァルたちがたまたま影響されたというのであれば、影響されない可能性だってあったはず……と考えると、アダ父が監視している割に運だよりすぎるので、アダ父にとってイングヴァルとマリアがアダを受け入れるのは既定路線だったと考えるべきだと思っています。もちろん、ペートゥルも。

アダ父的には、アダ母が処分されるかどうかはわからなかったとしても、人間にある程度育てさせたうえで連れて行く予定になっていた。つまり、アダ父の種族の習性だったのだろうなという気がします。とにかく、なににしても、まるっと羊であるアダ母に育てさせるつもりはなかったんでしょうね。

まあ、そもそも誰かに育ててもらうつもりすらなく、アダ母がアダを産んだあとはすぐに迎えに行くつもりだったというのも考えましたが、これも可能性としては低いのではないかと思っています。

もしそのつもりなら、もっと早い段階でさっさとアダだけ連れ出しているはずなので。

アダがちょこちょこ家から勝手に出られるぐらい、家のセキュリティーには穴がありましたし。実際、アダがアダ父の視線(?)に気がついて「なんだなんだ?」と様子を見に来るシーンはあれども、そんな無防備な状態のアダのことを一度はスルーしています。

娘の死因

作中、イングヴァルとマリアの娘・アダ(羊ではないほう)がすでに亡くなっているという描写が出てきますが、娘・アダの死因はおそらく水に関連するもの。

たぶん、水難事故かなにかでしょうか。

過去の出来事で、湿地を走りながら犬と共に娘を探すシーンがあったり、アダ(羊)がいなくなったとき、イングヴァルが真っ先に川のほうを探しにいったりすることからも容易に想像できます。

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犬と猫の違い

作中、犬がアダ父によって命を奪われるシーンが描かれていました(愛犬家さん要注意)。

なのに、冒頭からまったく同じ感じで出てきている猫は無傷。

えっ?

いや、「たまたまだろう」と言われたらそうかもしれないし、監督インタビューを読む限りではそこまで考えていないような気もするんですが、先述した通り、アダ父を悪魔的ななにかだと仮定すると、この謎もなんとなく理解できます。

動物に対する考えは宗教観や時代、国や地域などでもだいぶ変わりますが、猫が悪魔の使いであるという説を聞いたことがある人は少なくないのではないでしょうか。猫と魔女って結構セットになっていたりしますよね。

その点、作中に出てくるワンちゃんは牧羊犬なので、どちらかと言えば羊飼い(イングヴァルとマリア)たちの仲間。というより、羊を管理する側。

悪魔的ななにかであるアダ父にとって猫は味方で犬は敵だったというわけです。

まあ、単純な見方をすれば、猫と違って犬はやたら吠えてうるさい(まだイングヴァルたちに存在を悟られたいときではない)から、あるいは自分を敵認定してきたため、という考えもできます。

マリアがアダ母を手に掛けた理由

第二章の中で、マリアはアダ母(羊)の命を奪ってしまいます

これ、冷静に考えてみればとても酷いことですよね。

だって、マリア自身、娘を亡くしたときの絶望や喪失感を知っているのにもかかわらず、アダからは実の母親を奪うような真似をしているわけです。そして、本物の親に成り代わろうとしている。「身勝手」以外の言葉が見つかりません。

無意識に、羊は人間に管理されるものである(家畜である)とマリアが思っている証拠です。

え、当たり前だろうって?

まあ、人によってはそうなんでしょうけれども、仮にそうだとして、ならその羊から生まれたアダを実の娘のように慈しむのはおかしいんですよね。矛盾しています。

マリアが羊を自分たち以下の存在であると考えているとすると、神様からの贈り物であるアダを失いたくない、もう二度と娘を奪われたくないという感情以上に、自分より劣る羊家畜にでさえ慈しむべき子どもがいるこんな世界はおかしいという気持ちがあったのではないでしょうか。

そう思ってしまうぐらい、アダ母を撃ったときのマリアは冷酷な表情をしていました。

理不尽さに対する怒りや憎しみを神様に向けている、というような。

なぜイングヴァルだったのか

最終的に退場することとなったのはイングヴァルだったわけですが、結構不思議ですよね。

アダ父視点からすると悪い行いをしているのは明らかにマリアのほうなのに、マリアではなくイングヴァルがアダ父の手に掛かってしまう。

これも、ある意味マリアのせいですね。

マリアは許されざる罪を犯してしまった。その罰として、イングヴァルは命を落とさなければならなかった。自分の行いのせいで大切な人を失うこと自体が罰になっているようにも思える(因果応報)し、アダから母親を奪ったために夫を奪われることになった(目には目を、歯には歯を)ともとらえられます。

単純に、マリアにアダ母を奪われた復讐とすることもできますが、アダ父がアダ母にそこまでの思い入れがあったかは謎です。そもそもアダ父とアダ母は愛をもって結ばれた夫婦(?)ではありませんからね。

まず「身内をやられた。憎い!」みたいな人間と同等の価値観はなさそうな気もします。

ラストシーンの意味

本作でもっとも謎を呼んだのは、イングヴァルを失ったことを知ったマリアの挙動でしょう。

もう息をしていないイングヴァルを抱き締めながら「なんとかなる」と呟き。そして、自らの下半身を見つめ、その後空を見上げる。

おそらく、この時点でマリアは妊娠しているのだと思います

なにもかも失ってしまって、唯一あるとすれば(かつての不貞相手)ペートゥルだけ。一見バッドエンドのようにも思えますが、私はハッピーエンドだと感じました。

もちろんマリア的にはです。

冒頭の時点から薄々感じていましたが、なんとか前向きに生きようとしているイングヴァルに対して、マリアはずっと過去にとらわれたままなんですよね。なんていうか、それこそ「前を向きたくない(娘を忘れたくない)」とでも言うかのように頑なな態度。

でも、アダのことをきっかけに「いま」を見つめることができ、さらにイングヴァルを失い、新たな命をお腹に宿したことで「未来(まえ)」を向くことができたという。

冷静に考えれば「いつかは手放さなければならない」人間とは違うアダのような(言い方は悪いかもしれませんが)偽物の子どもでなく、ずっと心残りだった自分とイングヴァルの子どもを手に入れた。

イングヴァルといたはずのアダの姿が見えないことに対して、そこまで混乱しているように見えないのは、自分の子であるかのように育てながらも、やっぱり完全に同じようにはできなかった……ということもあるでしょうし、なにかしらを悟ったような表情をしているので、アダはあるべき場所に戻ったのだと気付いたのだと思います。

マリアは自分を苦しめていたすべてのことから解放されたのです。

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まとめ:ペートゥルが良い人に見える不思議

正直、人間視点(?)で見たら、ペートゥルって結構なクズなんですよね。

兄がいる家で兄嫁にちょっかいかけようとするし(たぶんもうかけたあとだし)、なにをしたか知らないけれど、仲間にも車からポイ捨てされるぐらいぐらいだし。

なのに、イングヴァルとマリア、ペートゥルを並べてみると、一番倫理観があるように見えてしまうから不思議です。

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